「行こうか、NANA」

 静かな声で相棒を呼んで、少年は駆け出した。後ろを振り返らずに、わきめもふらずに。
 同じ頃、彼が敬愛してやまない従兄が自分の家を訪れていることを、彼は知らない。
 そのすれ違いがいくつかの波乱を生むことは、だれも知らない。





2.ホウエンに彼・来る(後)




「ルビーが家出したァ?」

 キャモメを頭に乗せた青年がすっ頓狂な声を出した。対する女性が深いため息を吐く。同じようにため息をつきたいところを我慢して青年は眼鏡を押し上げた。おそらくあのさとい従弟はこの引っ越し初日をずっと前から狙っていたのだろう。長く暮らしたジョウトでは追いかける方も地の利を知り尽くしている。だが引っ越したばかりのこのホウエンなら、多少の不便はあるものの追っ手(?)からは逃げやすい。まったく変なところで小賢しくなって、とあきれる青年は、従弟が誰の影響を受けてそうなったのかをちっとも考えていない。
 状況をわかっているのかいないのか、キャモメが愛敬のある鳴き声をあげた。

「まーたセンリさんと喧嘩したのか……お互い頑固だからなー」
「いいえ、多分、あの子が一方的に勘違いしただけじゃないかしら……」
「オーイ、それって一番間抜けじゃねえの……?」
「キャモ、キャー」
「ちょーっと黙ってな、みー」
「メエー」

 一声応えてそのまま青年の頭で眠ってしまったキャモメに彼はため息で返した。女性が笑う。

「いつの間にキャモメなんてつかまえたの、? しかもずいぶんなついているのね」
「ああ……まあね…」

 しまった、とでも言うように青年────が目を泳がせる。それに反応したキャモメがぴくりと目を覚まし首を伸ばしてをつつく。そのくちばしを受け止めた青年がおもむろに取り出したモンスターボールにキャモメを収める。きょとんと見つめてくる女性に、は力なく笑った。

「ホウエンについたと思ったらさっそくこれか……俺なんか呪われてんの?」
「私に聞かれてもわかるわけないでしょう? 主人もルビーを追って飛び出して言っちゃうし……」
「えっ、センリさん追っかけてっちゃったの!?」
「ジムの仕事だってあるのにねえ」

 頬に手をあてて女性は嘆息する。ひとしきり驚いたあと青年はがっくりと肩を落として、それからのろのろとバッグを手にとる。出かけるの、と投げかけられた声に頷いて、彼は暗澹とした気分で扉をあけた。
 せっかくしばらくは何事もなく過ごせるだろうと思っていたのに、まったくあの親子はどこまで自分のささやかな幸せを打ち砕くつもりなのか。ジョウトに住んでいたころを思い出しながら、はゆっくりとボールを手にとる。放物線を描いて放り投げたボールから飛び出したのは毛並みもつややかなピジョット。まったくパートナーの意思を汲むのに長けた相棒で助かったよと彼は一人ごちた。

「姉さん、俺ちょっとルビー追っかける」
「あら、そう? じゃあついでにうちの人にも声かけてきてもらえるかしら」
「はは、センリさんはついでなんだ」

 女性の言葉に苦笑して、はピジョットに飛び乗った。ばさり、とはばたいてみせるピジョットを鼓舞するように叩く。のんびりとした表情の奥で心配そうな瞳をする女性に、青年は穏やかに手を振った。

「また連絡するよ、姉さん」
「ありがとう、ごめんなさいね、
「あはは、姉さんが謝ることじゃないって!」

 軽やかな笑い声を残して、ピジョットは見る見るうちに遠くなっていく。その影を見送りながら、彼女は小さな違和感に気がついた。


「あの子、キャモメを戻したボールからピジョットを出してた……?」











(いってきますとさようなら)