"The Children" enter the school immediately after this.

 わたしたちは今、薄氷でつくった紐の上を綱渡りしている。
 それくらいのバランスだった。お互いがお互いをどう思っているかなんてとっくに気づいてるのに、同じ空間で生活してきた時間が長すぎて一歩踏み出すどころか足の動かし方がわからない。その恐ろしい状態から逃げるように研究室に泊まったり、訓練で夜を明かしたりもしたのだけど────
 ────もう、限界だ。
「コードネーム、ザ・サイレンス。クン、いいネ?」
「もちろんです、桐壺局長。事前書類はすべて朧さんに」
「よろしい。何かあったらすぐにレベル5で連絡を入れること。命を守ることを最優先にするんだヨ?」
「はい。お心遣い感謝します」
「そう格式ばらないでくれ! ワシは本当に、純粋に君が心配でええええ!」
 そう言って(いつものように)滂沱の涙を流す桐壺局長を見て、横に立つ朧さんを見て、それから少しだけ笑った。
 桐壺局長はやさしい。バベルなんて言うゆがみひずみだらけの組織の一番上で、桐壺局長だけがいつもやさしく君臨している。わたしはこの人が大好きだし、この人以外が局長を務めるバベルになんて従いたくないとさえ思っていた。米国から輸送されて初めてバベルに入ったとき、人間不信で真っ黒だったわたしを何の気負いもなく受け入れてくれた。だから、わたしはバベルを信じようと決めたのだ。桐壺帝三という人間が指揮するバベルを。
 足元に置いてあった大きなスポーツバッグを肩にかけて、ひとまず泣きやんだらしい局長を見上げた。ものすごく大柄な人だと見るたび思う。スーツを着てても堅気には見えない。
「それじゃあ、行ってきます、局長」
「ウム、賢木クンにはワシからうまく────」
「局長ッ、が長期潜入に入るって本当ですか!?」

 ・・・・・・。

「・・・・・・・・・朧さぁん」
「・・・私は款口令を敷いたんだけど」
 わたしがジト目で朧さんを責めているうちに、扉をぶち開けた賢木さんの向こうからわらわらとザ・チルドレンの皆が飛び出してくる。口々にかわいらしい声で「はん嘘やろ!?」だとか「行かないでよ、ねえちゃん!」だとか「なんで行っちゃうの、さん!」だとか言っている。その後ろに怯えた表情の皆本さん。そこで朧さんの失策を悟ったわたしはこめかみをおさえてため息をついた。
「朧さん、ミス一つ。紫穂ちゃん対策のプロテクト。ってかなんで皆本さんに話しちゃうんです?」
「一応、現場運用主任以上には伝えなきゃいけない規則なのよ」
「もー、賢木さんに内緒ってのはやってくれたのに、意味ないじゃないですか!」
!」
 ひときわよく通る声が(わたしの耳限定かもしれないけど)大声でわたしを呼んだ。朧さんと向き合っていた体をゆっくりとそちらに向けると、形のいい眉をつり上げて、力強い瞳いっぱいに怒りをたたえた賢木さんがこちらを見ていた。その顔と走ったせいで若干乱れている白衣を見て、ああやっぱり好きだなあと実感する。そして、怒りに揺れる瞳の向こうでわたしを心配してくれている賢木さんを見つけて、この人もわたしを好きなのだとまた気づく。
 ある日いきなり、正確には、私が不二子さんに眠らせてもらった休暇が終わってから、賢木さんはわたしを時折「男の人の瞳」で見るようになった。気づいてすぐは何かの間違いか、京介さんか不二子さんが余計なことを言って何か勘違いしているのかと思った。賢木さんはわたしを見る瞳に一瞬熱を灯すだけで何も言わないし、何もしないから。だけど日数を重ねるごとにそれが間違いなのだと思い知らされて、わたしはもう限界だと悟ったのだ。
 このままで生活することはできない。
 ちょうどよくそこにパンドラ関連組織への長期潜入任務があったから、それに乗っかることにした。任期は最長で2年。その間に頭を冷やすし、冷やしてもらう。
 逃げだと責められてもかまわなかった。
「なんですか、賢木さん。どうかしました?」
「どうかしました、じゃないだろ! おまえ、俺に何の説明もなく・・・!」
 あなたは絶対反対するでしょう、と言えば当然だと即答された。頭の奥で小さく怒りが弾ける。
「どうして?」
「は?」
「どうして賢木さんが反対するんです? わたしの諜報任務なんて、これが初めてじゃないでしょう」
「ばっ・・・・・・そういう問題じゃねーだろ!」
 なおも言い募ろうとする賢木さんに苛立ちが募る。わたしを心配するような言葉は言えても、ほしい言葉はくれない。だけど、それをわたしから言う度胸もない。
 ────だから。
 スポーツバッグを肩にかけたままドア近くの賢木さんに歩み寄る。
 よれたシャツの胸倉を掴んで引き寄せる。
 強引に引っ張った分とすこしだけ伸ばした首で身長差を埋める。
 近づいた瞳を睨みつけて、力任せに口づけた。
「・・・っ!?」
 ハニートラップ系の任務で鍛えられてしまったテクニックで賢木さんの口内を蹂躙する。歯茎、歯列、上あご、舌先、全部舐めた後で顔を離すと、賢木さんは半ば茫然といった表情で固まっていた。びきり、とこめかみのあたりで血管が音を立てるのを意識しながらわたしは凶悪に笑う。唇の両端をつり上げただけで、瞳はまったく笑っていない自信がある。
「・・・帰ってきたらわたしはあなたを襲いますからね。抱く度胸がないならさっさとわたしの主任を辞めてください」
 言い放って掴んでいた腕をつき飛ばすように離した。ちょうど空いたドアの前を通り抜けるように部屋を出る。
 わあわあ途端にうるさくなった局長室は無視。もう知らない。とりあえず任務。
 いまさら2年なんてどうってことない。わたしは7年あの人を追いかけていられた。



09/12/28

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