感情のままに走り続けて、気がついたときにはずいぶんと懐かしい場所にたどり着いていた。
川の両岸を繋ぐ橋の袂。バベルに来てしばらくは嫌なことがあるたびにここで誰にも聞いてもらえない愚痴を呟いていた。我ながらずいぶんと根暗な子供だったと思う。
トリくんに出会って、後輩が出来て、賢木さんと再会して、もう長いこと、ここには来ていなかった。なのに足は勝手にこの場所を選んだ。よっぽど限界ギリギリなのかな、わたし。
アスファルトの端っこにぺたんと座り込んで、何をするわけでもなく左から右に流れていく川を眺めていたら、ここにたどり着く原因になった喧嘩を一からきれいに思い出してしまった。抑えきれずに涙が溢れてくる。取り繕う相手がいないから歯止めが上手くきかない。
「・・・っ、もう、やだぁっ・・・」
ばたばたと落ち続ける涙を放置して、とりあえず気が済むまでここにいようと思った。こんなコンディションじゃ、どんなに簡単な任務でもこなせる気がしない。
今日の言い争いで思い知ったのは、わたしはどう足掻いてもあの人に一人前として認めてもらえないのだということ。”被保護者”から、”一人の女”に昇格できる時は未来永劫訪れないのだということ。わたしの主観で、5歳の年の差は永遠よりも深い。
────じゃあ聞くけどな、おまえは本当に”友達”のそいつを殺せるのか。
一ミリの隙もない疑いの声だった。涙が出るかと思ったくらいだ。
わたしの中で兵部京介という人はたしかに優しくて気の利く友人なのだけど、同時にパンドラのボスであるということも痛いほどわかっている。不二子さんから命令さえ下されたら、わたしはお喋りを楽しむ笑顔のまま京介さんの心臓を抉りだしてみせる。今は彼女たちの判断でそれは先送りにされているが、絶対にやってこない終結の形ではない。その覚悟を常に忘れないことが、わたしの特務エスパーとしての誇り。
それを泥にまみれた靴で踏みにじられたようなものだった。なのに怒りよりも先に悲しみが顔を覗かせる。
信じてもらえなかった。誰よりもそれを望んでいた、あの人に。
情けなくて涙が止まらない。
「誰か助けて・・・もうやだ・・・」
「助けてあげようか? ────今度はなんで泣いてるんだい、」
「────・・・京介、さん・・・」
穏やかすぎるほどの声に顔を上げれば、視線の先ではいつも通りの銀髪を揺らして京介さんが佇んでいた。
「なんだか、君は見るたび泣いてるね。どうせ保護者がらみだろう?」
「・・・京介さんの意地悪」
「ひどいな、こんなに優しい僕をつかまえて意地悪だなんて」
「京介さんが優しいのは知ってる・・・知ってるけどさ」
今は会いたくなかった。そう言うと、京介さんは器用に片頬だけで笑う。
トリくんがバベルでわたしを支えてくれたように、バベルの外でわたしを見ていてくれたのは京介さんだった。もちろん例の無断外出だ。いつの間にかパンドラなんて言う対抗組織をつくっていたことにはそりゃあ驚いた。
正直な話、日本のバベルで任務につくようになってしばらく────他の後輩たちが任務につき始めるまでは、パンドラへの逃亡を考えたことも何度かあった。トリくんの庇護は研究所の中でしか力を持たない。バベル付属の研究所は、その名にふさわしくバベル本部の敷地内に立っているだけのこぢんまりとした建物なのだ。
"研究局"付属の"研究所"なんてお笑いだとは思うけれど、バベル自体はもう特務エスパーの派遣組合のようになっているのだから仕方ない。日本に来てしばらく続いたのは研究セクションの小さなビルに与えられた部屋と本部ビルを行き来して任務と検査・実験を繰り返す毎日。
日々の生活の大半を過ごした本部ビルは、当時のわたしにとって地獄と同義だった。廊下を歩くだけで刺さる視線、聞こえてくる噂話。好意的なものなんて一つもない。そりゃそうだ、特務エスパーなんて、化け物のハイエンドのようなものなんだから。
消耗して、消耗して、吐き出せなくて、怒りをぶつけるようにして任務をこなしていた。そんなもろもろを受け止めてくれた京介さんは、救世主に近い存在だった。
でも────京介さんを救世主にたとえるなら、
「だからあんなに言ったのに。”パンドラへおいで”って」
「イヤ────絶対、イヤ。賢木さんを傷つける可能性があるような組織なんて、反吐が出る」
「これだ。そうまでしてかたくなに想い続ける価値のある男なのかい、彼は?」
「当たり前でしょ! あの人がいなきゃわたしは、」
「!」
京介さんを救世主にたとえるなら、────賢木さんは、わたしの神さまだ。
着ずっぱりでヨレた白衣、鋭く光る瞳、重力に逆らった髪形、日に焼けた肌。
わたしの上司が息を切らせてそこにいた。
目が合うより早く名前を呼ばれた。短い叫びに込められたのは焦りと何かよくわからない激情と、ほんのわずかな命令。その命令の響きだけに反応して、わたしの髪が目にも止まらぬ動きで京介さんを縛りあげる。
「・・・逃げない方がいいんだろ、ここは?」
「そう言う、わたしの7年間を無駄にするようなこと言わないでよ・・・」
四肢を引っ張るようにして拘束した京介さんとうろんげな瞳で会話する。もちろん、こんなものは時間稼ぎが精いっぱいだ。彼が本気を出して逃げにかかれば、わたしに止める術はない。なのにそれをしないというのだから、この人はつくづく人がいいと思う。
わざとらしく足音を立てて賢木さんがこちらに近づいてくる。
前触れなしに強引に目許をこすられて思わずのけぞった。
「・・・また勝手に一人で泣いてたな、おまえ」
「またってなんですか、それ。別に賢木さんが心配するようなことじゃ、」
「泣いてたぜ。それはもうぼろっぼろにね。誰のせいだか知らないけど?」
「京介さん!」
「”京介さん”、な・・・。────兵部京介、そろそろおうちに帰る時間だぜ」
びき、と音を立てて賢木さんの額に青筋が走る。それが何故なのかわからないままに京介さんの拘束を強くすると、彼は処置なしとばかりに天を仰いだ。
「これだから嫌いなんだよ、君はね・・・」
「は?」
心底軽蔑したような京介さんの言葉に、賢木さんが不穏な声をあげる。それを無視した京介さんは首をめぐらせてわたしの方を見て、目だけで笑った。いやな予感が急激に膨らんで、思わず身を引いた瞬間抑えられていた京介さんの力が解放される。押し負けて拘束は外れ、驚いている隙に触れるだけの口付けを落とされた。
「ッ!?」
「むかつくからこれで気付けばいい。じゃあな、」
「・・・ちょっ、京介さんッ!」
抗議する暇もなく消えていく影。視界の端で膨れ上がっていく殺気。
「・・・・・・・・・?」
「・・・・・・・・・・・・・・・」
わたしは悪くない、と言って聞いてもらえるだろうか。
08/10/11
<<Back