「音楽で赤点なんてあんたくらいだよ」  




 かすかな鼻歌に合わせて口元で揺れる煙草。くわえ煙草がこの上もなく似合うその人は、驚くほど美しい指で一枚の紙切れを摘まみ上げた。

「まったく、何をどうしたらこんな点数取れるの、あんた」
「俺は全力で頑張ったぜ!?」
「ああはいはい。ごめんねあんたが馬鹿ってこと忘れてたわ」

 くっと喉の奥で笑って、彼女はいったんくわえていた煙草を口から離して机の上の灰皿に置いた。窓から吹いてきた風に細い紫煙が揺れる。
 胸ポケットからボールペンを取り出して、几帳面そうな字で細かく解説を書き加えていく指を目で追いかけながら、一は不思議な気分だった。
 彼女は────は、一たちの通う聖帝学園で音楽を教えている教師だ。ざっくばらんな口調と性格で生徒の人気は高いが教師内での評判はいまいちらしい、と翼がこぼしていたのを漏れ聞いた覚えがある。一たちB6が三年生になる年に担任としてやってきた南悠里が今もっとも信頼を寄せている教師だとか、何とか。

「────でここの頭がFの音でその一個上に♯ついてるから……草薙、聞いてんの?」
「えっ? ごめん先生、もう一回!」
「…こりゃー悠里チャンも苦労するわ」

 呆れ顔でそう言って、は机の引き出しから一枚のプリントを取り出して一に突きつけた。ぱちくりとそれを凝視する生徒に続けて教科書を放り出して、「それとりあえず終わらせな」とそっけなく言ったかと思えば灰皿に置いてあった煙草を取り上げてぷいとピアノの方に足を向けてしまう。急に遠くなった背中と目の前の暗号文のようなプリントを交互に眺めて、一は恨めしげに呟いた。

「全然わかんねー…要先生教えてくれよー!」
「バァカ、甘えてんじゃないの。自分で解くから身に付くんでしょ」
「そんなぁー…」

 情けない一の泣きごとをさらりと無視した彼女はまたぱくりと煙草をくわえてピアノの前に腰を下す。

「ま、音楽なんて受験にゃ必要ないからね、先生方がないがしろにする気持ちはわかるけど」

 試験本番でモノを言うのはリズム感とセンスよ。タバコを器用にくわえたまま歌うように言う。
 プリントと教科書を前に頭を抱える一を笑い含みで見やって、は少し黄ばんだ鍵盤に指を伸ばした。
 溢れる音に、目が眩むような錯覚。
 斜め下に向けられた目線に合わせて、マスカラで伸ばされたまつげが小さく影をつくる。こぼれるメロディーに合わせてゆらゆらと揺れるくわえ煙草、きらきらと絶え間なく淀みなく動く、ひかるおとのゆびさき。
 しばらく茫然とその光景を見つめていて、一が気付いたときには一曲が終わっている。
 プリントの進み具合を尋ねてくる彼女の薄っぺらい笑顔に後押しされたのか、無意識のうちに一は”それ”を口にしていた。

「俺、先生が好きだ」
「……そうかい。あたしはもう少し頭の出来とものわかりのいい生徒が好きかな」

 鼻で笑われた。軽くあしらわれたことにむっとして睨みつけるが、それすらもあっさりとかわされてしまう。
 ゆるゆると鼻先で曖昧に空気へ溶ける煙を捕まえるような勢いで立ち上がり、一は宣言した。

「俺、ゼッテー先生に俺のこと好きって言わしてみせるから!」
「はいはい、その前にプリント終わらせな」


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