できることなら一生見ないで済みたかったドアをいやいや押し開けると、 部屋の中では久々に見る人間が誰かと談笑していた。 ぴんと伸びた背筋、取り立てて美しいというわけでもないが見苦しくない程度には整った顔。 穏やかな亜麻色の髪は左右に振り分けられ、ゆったりと巻かれている。 いい加減に切りそろえられた前髪の奥で、黒目がちな瞳が私を見つけて少しだけ丸くなった。 「あれっ、珍しいね、ゼンジ君がここに来るなんて」 「できるなら一生来たくはなかったがね。今日に限って誰も来なかったんだ」 「あはは、お使い頼めなかったんだ? そうかあ、じゃあセッちゃんには会いに行かなきゃなあ。元気?」 相変わらずだと答えると何が楽しいのか面白そうに笑う。 セッちゃん、というのは彼女だけが使う関口のあだ名だ。彼女はどこからひねり出すのかわからないがいつも決まって珍妙なあだ名をつける。相手が嫌がろうとまったく意に介さずに。 風呂敷包みを下げて立っていると、衝立の向うから聞き覚えのあるだみ声が彼女を呼ぶ。そこで彼女はようやく気づいたらしくあわてて私の荷物を奪って中へと促した。 「客か────オウ、珍しいな京極」 「不本意ながら。そう言う旦那はどうしてここにいるんだ?」 「の野郎が帰ってきたからな。顔でも見てやるかと思ってな」 「その割にねぎらいの言葉一つくれないで、意外と修は冷たいよね」 笑う木場に軽い恨み言で返しながら手早くソファを片づけてどうぞと示される。 風呂敷包みを机においてソファに坐ると、斜向かいに腰を下していた木場が煙草に火をつけながら毒づいた。 「るせエな。労ってやったらやったで気味悪がる癖にそういうこと言うんじゃねエよ手前はよ」 「当たり前でしょ? やさしい修なんて気持ち悪い以外の何者でもないよ。 ゼンジ君、悪いんだけど、礼ちゃん今出かけてるの。なにか用事なら言付かるけど?」 申し出を手で断る。もともとこの包みを届けに来ただけだったのだから目的は果たしている。それでも帰る気がしないのは、やはり久しぶりに会う人間がいるからだろう。 幸い榎木津もいない。少しならいいかと息をつくと、ちょうど寅吉が茶を持ってきたところだった。 「しかしさんが帰ってきてくれて助かりました。ここ最近うちの先生は機嫌悪くって」 「僕らに八当たりするんだからたまったもんじゃないですよう」 「んー、私がいても八当たりすることはするんだけどねー」 「いーえ、さんがいる方が絶ッ対静かですね。賭けてもいいですよ」 軽口を叩きながら益田が言う。榎木津のお供かと思ったら、どうやら件の破壊神は一人で出かけたらしい。 ひどいんですよあのおじさん、とわめく益田を見てが笑う。笑った拍子にくるりと巻かれた髪がふわふわと揺れる。どうやっているのかさっぱりわからない彼女の髪を見るのもずいぶんと久しぶりだった。 「それにしても、いきなりの帰国じゃないか。帰るつもりはなかったんだろう?」 「東南亜細亜で知り合いの民宿を手伝ってたら、榎木津の御前様に捕まっちゃったんだよねえ」 そのままあの人の帰国に合わせて強制送還ですとが軽くうなだれた。 最後に見たのがいつだったかもう覚えてもいないが、は大学を出てすぐ日本を出た。 そのままずっと音信不通で、季節の便りが届くようになったのさえつい1年ほど前だ。 その便りではしばらく帰るつもりはないといっていたが、なるほど、あの元子爵なら彼女を連れ戻すことなど造作もないことだろう。 ふと、が顔をあげた。耳を澄ますようにして首をひねり、それから私達の方を見る。 「ゼンジ君、修、そろそろ礼ちゃん帰ってきそ─────────」 「わはははははははッ、僕が帰ったぞ!!」 「チッ、遅かったみてえだな、」 木場が顔をしかめる。ものすごい勢いで扉をあけた榎木津がソファの方を見てアッと叫んだ。 「なんだ、豆腐頭に京極まで居るぞ! くるくる女、おまえが呼んだのか?」 「いいえ? ゼンジ君はあなたにお届けものがあったみたいですよ、神様」 「ん、なんだそうなのか? なんだ京極、にゃんこが起きてるぞ!」 「・・・・・・・そう言えばあんたはあれが動いてるのを見たことがなかったな」 私の頭の上を見つめて喚く榎木津に呆れ混じりで返す。どうせこの奇人が言う"猫"というのはザクロのことだろう。 が榎木津を、榎木津がを呼ぶときの違和感はあえて気づかなかったことにした。 私はそのまま素知らぬ振りで帰ろうとしたが、無骨な木場は顔をしかめて二人をにらみつける。 否、睨んだという自覚はないのだろう。ただ地顔の人相が悪いだけで。 「・・・・・・・手前ら、いつのまにそんな呼び方になったんだ?」 「・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・・」 「・・・・・・・・・・・・・・えへ」 「旦那・・・・・・・・・」 寅吉が不自然に動きを止める。益田が顔をしかめる。榎木津が不愉快そうな顔をする。がことりと首を傾げる。私は思わず眉間を押さえてうめいてしまった。 大方のところ、帰国したのことを榎木津が覚えていない振りでもしたのだろう。そして今もそのままで。彼女がなぜ榎木津を"神様”などど呼び称しているのかは定かでないが、どうせロクな理由ではないことくらい木場にもわかりそうなものだが。 「なンだよ。おい礼二郎、何とか言いやがれ」 「旦那、ちょっとは考えてくれ」 「あァン?」 「んー、・・・・・神様、私そろそろ帰ります」 ちっともわかっていない木場に苦笑してがおもむろに立ち上がる。送って行ってくれるよね?と笑顔で確認されて、木場と二人でため息混じりで腰を上げた。 「じゃあ、また明日ね。マー君、カズ君、台所頼んだから」 「了解しました」 「明日もお願いしますねー、さーん」 「さよーなら、神様」 榎木津は振り向きさえしなかった。 そのままに促されてビルヂングを出ると、空を仰いで歩き出した彼女に木場が鋭く問いかける。 「で? 連れ出したってことはゲロする気になったんだろ?」 「んもう、そんな刑事用語使わなくたって・・・・・・」 眉をぎゅっと寄せては木場を見上げ、さりげなく私の影に隠れながら言葉を返した。あえて木場の視界──木場の視線が届く範囲──に入ろうとしないのは、何か見抜かれて困ることでもあるのか、ただ単に木場の眼つきが恐ろしいだけなのか。ちらりと目線だけでを見ると、きまり悪そうに肩をすくめられた。 「いや、さあ。だって礼ちゃん返事してくんなかったんだもん」 「あ?」 「・・・・・どうせ覚えてなかったんだろう? そう言う奴だからな」 「そ。そう言う人なの。それを忘れて勝手に期待した私の失敗です」 さっぱりわからないと首をひねる木場を放置して、私とは嘆息する。故意に間違えてみたが彼女はそれを訂正しない。どうせそう大差ない話だ。ただでさえややこしい話に木場が絡んで来るとさらにややこしくなるに決まっている。 「どうせ返事してくれないならせめて相手の望んでる呼び方で呼んであげた方があっちも嬉しいでしょ?」 「それが"神様"か?」 ようやく話に追いついたらしい木場にこくりと首肯する。確かにかの榎木津は常日頃から自分のことを神だとか何とか言ってはいるが、それを本気にする人間なんてものはいつかの女学生とくらいなものだろう。まあはほとんど皮肉のようなものだろうが。 「・・・・・俺ァてっきり手前が帰ってきたって聞いてやっと礼次郎と結婚する気になったのかと思ったぜ」 「は?」 「あー、そんな話もしてたねー。でも向こう覚えてないしさー」 ぎょっとして顔をしかめた私を横にが苦笑した。在学中の二人の関係はどこからどう見ても恋人同士ではあったが、結婚、というのは初耳だった。あの榎木津が、結婚。どうしても違和感がある。 ごく自然に私の横をすり抜けて前を歩きながら、がまだ空を仰いでつぶやく。 「どっちにしろ、あのまま日本にいたらそうなってたかもね。それが嫌だったから旅に出たんだけど」 「嫌だったのかよ?」 「んー、いや、礼ちゃんと結婚するのが嫌だったわけじゃないよ?」 じゃあなんだ、と木場の言葉を継いで私が聞くと、内緒、と面白がるような声でが答える。舌打ちした木場に、彼女は静かに振り向いて口元だけで笑った。 「だって礼ちゃん、私が礼ちゃんと結婚するのは当然で、それ以外は罪だみたいな顔でいつも私を見るんだもの。なんだかそれって変じゃない?」 ───未来は自分以外のあらゆる要因によって決められるものだが、選べる道が一つというわけではない。 それは彼女が在学中からずっと言っていた持論だった。青臭い話だけどねと気恥ずかしそうに笑うを、まぶしそうに見ていた榎木津の瞳がひどくやさしいものだったことだけは覚えている。 おおよそのところ間違いなく、榎木津はを愛しているのだろう。忘れているというのも嘘で──そして彼女自身もそれに気づいていて何も言わないが──ただ単に例のごとくへそを曲げてすねているだけなのだ。あの傍若無人を絵に描いたような榎木津が、が姿を消したときには珍しく元気がなかったような気もする。季節の便りが来たといって心なしか自慢げに家に乗り込まれたのはいつのことだったか。 難しい顔で考える木場を見てが底意地悪そうに笑った。 「修の言う通りだよ。ほんとは礼ちゃんと結婚しようと思って帰ってきたの」 「あ?」 じゃあなんで、という顔で木場が声をあげる。珍しく悪そうな顔をするに驚いて凝視していた私は、その笑顔がゆっくりとさらに凶悪になっていくのを見た。 「───素直にプロポーズも出来ないような人は、一生独身でいればいいと思うの」 ちょっとへそを曲げて忘れたふりをするなんて最悪最低の男だと思わない? 木場が凍りついた。私も動けない。 どうやら彼女は外国で知らない間に思わぬ毒を手に入れていたらしい。 (これは、今から謝っても許してはもらえなさそうだぞ、榎さん・・・・・・) 神といえども、この女性の心を動かすことは出来ないだろうから。 |