肺にためこんだ息で声帯を弾く。
 転がり出た声を唇でかたどって吐き出す。
 そうして、私の音はかたちづくられる。



小鳥の言葉が



 実を言うと、彼のことは名前しか知らなかった。近年稀に見る楽の才に恵まれた者だという風評は、人づての人づてに漏れ聞こえてくるものでしかなく、私はその類を信用していなかったからだ。ただぼんやりと、その古風な名前から勝手なイメージだけを膨らませていた。
 だから、無理やり詰め込まれたコンサートホールで彼の姿を見た時はもうそれはそれは驚いた。
 身の丈ほどもあるチェロを抱き抱えて、男にしては細い左手と右手の弓で恐ろしく精緻な音を構築する。演奏している間始終無表情で、何をどうしたらあんな顔をしたまま背筋が震えるほど感情的なピチカートが紡げるのだろうととても不思議な気分になる。リズムをとって揺れるのに合わせて時折震える色素の薄い柔らかそうな髪が印象的だった。私の周りには彼ほど長く美しい髪を持つ人間はいない。


♪♪♪


 学内試験とその後に行われる成績優秀者によるコンサート。私が彼を初めて見たのはそのステージで、おそらくはこれからも彼を見るのはそこしかないのだろうと思っていた。なにせまず専攻が違う。ピアノ専攻やヴァイオリン専攻ならいざ知らず、声楽とチェロではかすりもしない(もちろん、例外は存在するだろうが)。
 ────と、思っていた。

 中庭を抜けて少し歩いたところ、知っている人間の方が少ないような空間で、彼────綾部喜八郎がチェロケースに寄り添うように眠っている。同じように昼寝をしに来た私は、予想もしていなかった状況に思わず固まった。一瞬力の抜けた手から滑り落ちそうになった楽譜の束を抱え直して、すやすやと惰眠を貪る綾部の顔を覗きこむ。
 本当に男なんだろうか、性別偽ってんじゃなかろうかと疑いたくなるほどきめの細かい肌と豊かな髪。毎晩鏡とにらめっこしながらない金をはたいてスキンケアに気を使う自分が馬鹿みたいだ。思いつきだけでつついた頬はやっぱりすべらかでなんだか虚しくなった。意外と寝汚いのかいっこうに起きる気配を見せない綾部になぜか腹が立って、頬に置いたままの人差し指に力を込めた。
 ぐに。
 押し付けられた私の指を中心に、柔らかな頬が骨の形に沿って変形する。ぐにぐにとつついていたら、ようやく彼は目を覚ましたようだった。

「…何をするの」
「ごめんなさい、あまりにも気持ちよさそうだったから」
「おやまぁ、寝ている人間にちょっかいをかけるほど声楽専攻は暇なの?」
「え?」
「声楽専攻の鷺沼要さん」

 初対面。のはずだ。廊下ですれ違ったことすらない。私が綾部喜八郎を知っているのはともかく、なぜ彼が、特に有名なコンクールに残ったこともない私を知っているのだろう。
 疑問がそのまま顔に出たのか、「わからない?」と言いながら綾部はゆっくりと体を起こした。

「大川学園で、合唱部だったね。…わたしも、同じ学校だった」
「へ? お、同じ学校…?」
「そう」

 短く答えて、髪についた草や葉っぱを払うために頭を振った綾部に見覚えがあるような気がした。まじまじと見つめながら昔の記憶を掘り起こす。
 大川学園は私が高校3年間を過ごした母校だ。綾部もそこの出身だった? ふと、部活が終わった後、薄暗い昇降口を抜けた時のことを思い出した。綾部ほど長くはないが、それでも軽く結べるくらいの柔らかそうな髪に目いっぱい土埃やら木屑やらをつけていた少年。人の少ない昇降口でぶるぶると頭を振ってそれを払っているのを見て、失礼にもなんだか犬や猫のようだと思っていた。
 まさか。

「…え、もしかして、美術部の?」
「そう。あの頃は、学校でチェロはやっていなかった」
「え、だってなんか彫刻で賞とかとってたよね? なんで?」
「今でも掘りたくなったら掘るよ。チェロも同じ。現段階では、多少チェロに重きを置いているというだけ」
「へええ…」

 いわゆる天才肌とか言うやつらしい。能力は高いが一点突出な私の友人たちとは違う。すごいなあと感心する半面、普通に生きていればまったく関係のない苦労もあるのだろうと一方的に同情したりする。
 一声返したきり黙って綾部を見つめていた私の視線の奥から何を読み取ったのか、ふわふわの髪を揺らして彼は自身のチェロケースをゆっくり撫でた。そのまままったく同じ動きで頭を撫でられる。
 驚いて少し身を引くと、きょとんとした瞳にぶつかった。意味はないらしい。私が綾部の寝顔をつついたのと同じように。

「鷺沼要さんは、どうして合唱をやめたの?」
「え、やめ……っていうか、あの、なんでフルネーム」
「不愉快?」
「いや別に、いいけど。好きに呼んでくれれば」

 そう、と無感動に一言呟いて綾部が私を見る。

「歌が嫌いになったわけではないんでしょう」
「当たり前じゃない! ただ、私の声は合唱向きじゃなかったってだけだよ」
「ふうん」

 自分で聞いておいてまるで興味がなさそうな返事だった。
 音程が取れないわけでも、リズムが保てないわけでもなかった。周りの声と徹底的に溶けあうことをしない私の声は、「合唱」というフィールドに居続けることを許さなかったというだけ。それでも歌から離れることはできずに今こうしているのは往生際が悪いとしか言えないというのも確かだけれど。
 吐息のような声を返して斜め上の虚空をぼんやりと眺めている綾部を同じようにぼんやりと見ながら、彼はなぜ表現の世界を変えたのだろうと思った。彼の彫刻作品(その時はそうとは知らなかったのだが)を見た瞬間の戦慄は今でも覚えている。覗きこめば底が見えるくらいのミニチュアサイズの穴なのに、なぜか引きずり込まれて逃げられなくなりそうだった。  あんなに恐ろしくも美しいものをつくったその手で、細やかな感情の機微を表情一つ変えずに作り出す。
 ねえどうして、と尋ねたら、ぱちりと一度だけ瞬きして綾部が言った。

「きみが歌を選んだから」
「へっ?」
「要の歌をもっとそばで聞いていたいと思った。それだけ」
「………えっ」



嘘になるとき




「なんてね」
「…………わ、私のときめきを返せ…!」
「おやまぁ、ときめいたの?」
「!!!」
 <君 さまへ提出 title by 寺山修司
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