桜はもう散っている。先週の大雨で、卒業式を待たずに学園の桜はきれいさっぱり散ってしまった。丸裸になってしまった桜を見て、私は昨夜少し泣いた。涙の跡を見咎められたとき、「桜が哀れで」と同室の子に言い訳したら、むしろ私の方が憐れまれた。見透かされている。
 今日は卒業式だ。圧倒的な存在感で超えられない壁として君臨し続けた6年生たちが、それぞれの道を選び取って学園からいなくなってしまう日。────七松先輩が、いなくなる日だ。

、……あんた、いいの?」
「何が」

 式典は自由参加だった。あの6年生に影響を受けた生徒は数多くいたから、学園にいる生徒のほとんどは参加したのだろう。私に気遣わしげな視線をよこしてくる彼女も、これからその式典に参加するために部屋を出るところだ。いつもよりもきっちりと頭巾を巻いて、長い片思いに終止符を打つらしい。私はそれが幸せな結末であることを祈っている。
 窓から裸の桜並木を眺めながらぞんざいに返すと、ため息の後に今度こそ完全に呆れ返った声が飛んできた。

「七松先輩、今日で最後なのよ。あんた言わずに済ますつもりなの」
「…別に、今日で卒業なんだから関係ないでしょ」
「あの先輩に卒業とか関係あると思うの」
「………」

 正直に言えば、後輩の私から見てもあの人は忍者に向いていなかった。卒業後は忍者にはならないかもしれない。そしてきっと、忍者になろうがなるまいがお構いなしで、いつものように学園を訪れては笑うのだろう。

 七松先輩とは、先輩が5年の冬から一年間だけ付き合っていた。

 私は入学当初からずっと一緒だった友達が、先輩は同じ組で高めあっていた同級生が、それぞれ実習で命を落とし、埋めようのない孤独を紛らわすために季節が一周する間だけ二人でいることを選んだ。途中から、それだけが理由ではなかったことも事実だ。そうでなければ、一年も一緒にはいないだろう。
 だが、私たちはお互いの隣に立つことを辞めた。ついこの間のことなのに、理由はもう覚えていない。覚えていないが、多分卒業が近くなってきたからだろう。忍者という冷酷な職業を目指すこの学園では、卒業後の未来を憂えて別れを受け入れる男女は少なくない。愛していないわけではないのだ。むしろ、私は今でも彼に焦がれている。口に出したことはないけれど。

「先輩、言わなかったら絶対怒るよ。そろそろ腹据えなさいよね」
「んー…。でも、ねえ…」
「話す機会がないならあたしがつくるから」
「……言う必要、ないと思うんだよね」
「何言ってんのよあんた、」

 彼女はそこでいったん息を切って、少しの間口をつぐんだ。言うべきかどうか迷うような短い沈黙の後、ぶつけようのない苛立ちを含んだ口調で言い切る。

「────その子、先輩の子なんでしょ?」

 無意識にお腹を撫でていた右手がぴくりと動きを止める。
 先輩方の卒業式を終え次第、私は学園を辞めることになっていた。原因は身の内に宿ってしまった新しい命だ。シナ先生や新野先生とさんざん相談して、結局堕ろすことはできなかった。時期やその他いろいろなことを鑑みても、父親は七松先輩しか思い当たらなかった。幸か不幸か5年生の私たちに色の授業はまだ始まっていなかったし、同時に何人とも関係を持てるほど私は器用ではなかったから。
 そしてさっきから再三にわたって言われているように、このことは私と先生たち以外だと同室の彼女しか知らない。先輩は知らないはずだ。言ってないし。

「私は学園辞めるし、先輩は卒業するんだから、もう会えないでしょ、どっちにしろ」
「そう言う問題じゃないってこと、わかってて言ってるでしょ」

 その言葉に無言で返すと、諦めたのか友人はため息一つだけ残して去っていった。
 悪いことをしたかな、と一人ごちてまた窓の外を見た。地面に落ちた桜の花びらが土と混ざっていわく言いがたいまだら模様を作っている。多くの人が顔をしかめる光景だが、私はそれほど嫌いでもなかった。

 『

 頭の中で七松先輩の声がこだまする。卒業したら、あの人は忍者になるのだろうか。それとも私の想像通り、何か別の仕事につくのだろうか。

 『

 そう言えば、ある時進路の話になって、家業の話を少しした記憶がある。家を継ぐだの継がないだの、あまり詳しく覚えていない。

っ!」

 がらっと引き戸が覚えのある乱暴さで開けられて、私は物思いを中断した。とっさに振り返ると、息を切らせた七松先輩がそこに立っていた。笑顔だ。どうしたというのだろう。

「…な、なまつせんぱい……?」
、おまえどうして卒業式に来なかった!」
「…え、人ごみが苦手で、って言うか、…もう終わったんですか?」
「終わった! それで要を探していたら、おまえの友達に会ってな、」

 一瞬動きが止まる。彼女はまさか先輩に言ってしまったのか。私の危惧を知らずに、先輩はころりと話題を変えた。

「あ、そうだ。、実家はどこだ?」
「は? ええと、尾張の方ですけど」
「そうか! なら平気だな!」
「あ、あの、何がでしょうか…?」
「────一年」
 七松先輩の顔から笑みが消えた。一年だぞ、と念を押すように繰り返して、ひどく真剣な瞳で私を見る。

「一年で迎えに行く。動かずに待ってろ」
「────────え、」
「まとめてさらっていくから、一年待ってろ」
「ま、まとめて、って…」
「おまえも、おまえの考えてることも、子供も、全部だ」
「……! なん、」

 なんで知っているのかというそれは、もう声にならなかった。愕然と目を見開いた私をまっすぐに見据えて、先輩は珍しく人の悪そうな笑みを浮かべる。「あまり私をなめるなよ」と低く呟いた後に、立ち止まっていた戸のところから大股でこちらまで歩み寄って私の目の前で膝をついた。何が起きているのかわからないで目を白黒させる私に向かって、少しだけためらった後に手を伸ばす。
 いつかのように優しく頬を撫でられ、私は思わず泣きそうになってうつむいた。その拍子に行き場を失った先輩の手は、そのまま私の後頭部を通ってうなじのあたりで落ち着いたらしい。なだめるように撫でながら七松先輩が言う。

「私がおまえを手放すことを選んだのはさ、。おまえも忍者になると思っていたからだ。おまえと戦場で会って戦わなくちゃいけないなら、いっそ手放して知らない人間にしてしまいたかった」
「…せん、ぱい、」
「なのに、その後シナ先生と話してたらおまえは学園を辞めるというし……私がどれだけ驚いて後悔したか、知らないだろ」
「…後悔……?」
「おまえが忍者にならないなら、離すつもりはない」
 呼吸が止まった。驚いて顔を上げた私の前で、七松先輩が笑っていた。瞳は真剣なままだ。

「……あのね、先輩」
「うん」
「私、先輩が卒業したら学園を辞めるんです」
「そうか」
「実家に帰って、赤ちゃんを生んで、」
「うん、」
「…その、子っ、…先輩の、」
「うん、ありがとうな」

 話しながらいろいろ堪えきれなくなって涙が溢れる。うなじを撫でていた手に引き寄せられて、土の匂いがする制服に顔を押し付けられた。視界いっぱいの緑に、本当に最後なんだと実感して、私はまた泣いた。

「せんぱい、黙ってて、ごめんなさい…」
「ん? でもこうして言ってくれたろ? だから気にするな」
「でも、でもっ…、私、」
「もういいよ、、もういい」

 腕を突っ張って先輩の腕から抜け出し首を振ると、ぐちゃぐちゃの顔を両手で包まれことさら丁寧に口づけられる。何度も何度も繰り返されるくちづけに、いつのまにやら涙は止まっていた。とどめとばかりに上あごを舐めてようやく唇を離した先輩を涙の残る瞳で見つめかえして、私は吐息のような囁きで「卒業おめでとうございます」と言った。





(こへは普通にかっこいいと思います)